共同親権 「男女平等な子育て」って何だ?

第3回口頭弁論、国の回答拒否に裁判所突き返し

 3月18日に行われた、共同親権訴訟(養育権訴訟)第3回口頭弁論では、国側は、他の様々な論点で共同親権への反論(原告の主張では必ずしもない)を行ったものの、第2回口頭弁論で原告側が行った求釈明に対しては事実上の0回答だった。

第3回口頭弁論、国の回答拒否に裁判所突き返し

 この裁判では、親権の調整規定も民法上なく、婚姻外では単独親権となることによって、単独養育が強制されることの違法性を問うている。もとより共同親権が望ましいものであるなら、それを婚姻中にとどめる理由が本来ないので、国側に説明を求めたものだ。

 原告側弁護団が国側の不誠実を指摘すると、休廷になり異例にも15分も3裁判官の協議がなされた。その後裁判官たちは、原告に再度質問の事情説明をするよう求め、それへの国側の回答を待っての弁論期日を設定することになった。原告側の質問は裁判所側もその重要性を認識しているようだ。

 国側は単独親権制度の合理性について「親権制度の意義」ではなく「婚姻制度の意義」という言葉を選んでいる。素直に解釈すれば、婚姻制度を維持するために単独親権制度が必要ということになる。でもそうなら、単独親権制度は子どもの利益のためのものという国の説明は苦しい。

 この前日、同じく家族法についての国賠訴訟の同性婚訴訟で、札幌地裁、武部知子裁判長は「同性愛者間の婚姻を認めないのは差別にあたり、憲法14条に違反する」と判断した(立法不作為は認めなかった)。国側は「婚姻制度は、子を産み育てるための共同生活を送る関係に法的保護を与えるのが目的」として、同性婚を認めなくても憲法14条に違反しないと反論したという(読売新聞2021.3/17)。これは子を産み育てたければ異性間で結婚しろ、という規範を人々に強制するものであっても、それで直接的な子どもに利益になるという説明は難しい。もとより子どものいない夫婦もある。

次回の口頭弁論は、6月17日13時半、東京地裁806号法廷にて。

共同親権と男女平等

 多く離婚や別居で子どもと引き離された別居親たちは、単独親権制度の不公正にしか目が行かない。しかし、多くの人にとって離婚率が3分の1になったところで、少数派の問題には変わらない。しかも、シングルマザーと別居親が対立していれば、社会的弱者の定義で言えば女性が強いので、男性の多い別居親は受けが悪い。だから女性を前面に立てるというのも、ジェンダーバイアスに訴える手法とも言える(子を産んだ母が引き離されるなんて、と男性の引き離しは軽視される)。

 そんなとき、そもそも婚姻中共同親権って言うけど、実際そうだったわけ、と問いかけると、当事者の幅がグンと広がるということにぼくたちは気がついた。当日配ったチラシに、皆さんの家庭は、「父親は外で遅くまで仕事、母親はワンオペで家事育児、じゃなかったですか。イクメンが褒められても、何となくPTAに出るのは母親、保育園の送り迎えは父親、とかなってませんか」と書いた。これを共同親権と呼ぶのはいかがなものかと自分でも思う。

実際、「結婚するとき、女性が男性の姓に合わせる割合は96%。離婚するとき、裁判所で女性が親権者になる割合は93%」。つまり、結婚とは、「女性が男性に従って子どもを育てること」になる。「親権を男が取れないのは育児を担わないから」という男性批判は、つまりこの単独親権制度の現状を肯定したいミサンドリーということになる。「タガメ女」も「カエル男」も実のところ、この構造を浮かび上がらせて批判するツールにほかならない。

「共同養育支援」の欺瞞―選択的共同親権反対

 もとより、男女平等の日本国憲法に合わせて戦前の家父長制を修正する形で部分的に導入されたのが共同親権制度だ。つまり共同親権は男女平等と子どもの福祉に叶うという前提がある。だとすると「子育ての男女平等」を考えるツールが、共同親権ということになる。

 当時の学者も為政者も、性役割はあっても親権獲得の機会が男女平等だから単独親権が残ってもおかしいと思わなかった。だけど、イクメンが褒められるのを批判する人間が、単独親権は男女平等というのはやっぱりおかしい。別にぼくたちは性役割に基づいた、月に1回程度の面会交流を言い換えただけの共同養育支援を求めてない(求めているのは引き離して金を得る面会交流支援者や弁護士)。均等かそれに近い養育時間(つまり「共同監護」)の配分が、男女平等に叶うと言っているだけだ。個人が生きやすい世の中も次世代に残せる。

子どものための親権制度と言っている人たちが、もとより選択的共同親権「ならいい」というのも意味不明。親権は子どもへの責任なら原則共同親権(選択的単独親権)にならないのはどうしてだ。話し合えないなら単独親権がいいというなら、「なんとなく」の役割分担で話し合わない夫婦のほうが、「婚姻制度の意義」は達成されて子どもは幸せか。

民法国賠訴訟での共通項=共同親権の不在

 先行する共同親権訴訟で、東京地裁は、2月17日、「親である父又は母による子の養育は,子にとってはもちろん,親にとっても,子に対する単なる養育義務の反射的な効果ではなく,独自の意義を有すものということができ,そのような意味で,子が親から養育を受け,又はこれをすることについてそれぞれ人格的な利益を有すということができる。」と明示した(ものの親権が憲法13条による幸福追求権であることは否定した)。

 名前や性的指向が否定されることも親子関係が損なわれることと同様、自分が否定されたような感覚になることは想像できる。この間、選択的夫婦別姓や同性婚の実現についての国賠訴訟では、その不利益として「共同親権をもてないこと」というのが、判で押したようにある。だったら、婚姻外の関係にも共同親権の適用を求める、ぼくたちの訴訟は彼らにとってもいっそう重要だ。

(2021.3.21 宗像 充)