ほんとに必要? 単独親権

子育てや教育、子どもの住むところやお金の管理など、子どもの親に対する法的権限を「親権」と言います。結婚した男女が子育てをしている場合、まず気にすることがありません。

日本では、この親権を2人の親が「共同」で持つことができるのは「婚姻中」に限られています。したがって、夫婦が離婚をするときには、親権をどちらかの親に決めるというのがルールです。子育てはどちらか一方が担うことになり、これを単独親権制度と呼びます。男女が未婚の場合は、親権は母親が得ることになっていてやはり親権者は一人です。

海外に目を向けると、単独親権制度を採っている国は先進国では日本だけです。イスラム諸国やアフリカの国々、それに東アジアでは朝鮮(いわゆる「北朝鮮」)が単独親権です。共同親権の国では、親どうしの関係と親子関係は区別して考えられ、「親どうしが別れても親子が親子である」のが当たり前です。なのになぜ単独親権制度が必要なのでしょうか?

「パパかママか」から「パパもママも」へ

単独親権制度は戸籍をもとにした家族のあり方(家制度)を明文化した明治民法の名残です。

戦前、親権は家長に所属し、婚姻中も単独親権でした。戦後男女平等の日本国憲法ができ、「婚姻中」のみ共同親権に移行しました。単独親権が残ったのは、男性のみならず女性も親権取得の機会が得られたという点で、当時の社会常識では性差別だとは考えられなかったのです。

一方、日本以外でも多くの国がかつては単独親権制度でした。「クレイマー、クレイマー」という映画は、単独親権制度最後の時代のアメリカの家族の別れを描いた名作です。

1970年代には、心理臨床家のジュディス・ウォラーシュタインが60家族の子どもへの継続調査を行ないました。両親が離婚した後、子どもと両親との頻繁かつ継続的な接触があること、特に父親(当時のアメリカでは親権を持つのはもっぱら女性でした)とよい関係を維持することの重要性が示されました。裁判を経ても親権を得られず、限定的な親子関係しか保障されない父親たちの運動も法改正を促しました。

以後、アメリカでは共同親権・共同養育の法制度が全米に広がっていきました。一週間ごとに子どもが双方の親の間を往来する家族のあり方も今ではよく知られています。

「子どもにとって離婚とは家が二つになること」

多くの国がそのことに気づき、同様の法改正を経験しました。微修正はあっても、共同親権に移行した国で単独親権に戻した国はありません。

「パパかママか」から「パパもママも」へ。それが世界の潮流です。

片親疎外とは

一方の親と会えなくなった子どもが、合理的な根拠もなく引き離された親に敵意を向け、罵詈雑言を浴びせたりすること、あるいは子どもから片親を引き離す行為を片親疎外(Parental Alianation)と呼びます。同居している親が、もう一方の親の悪口を言って洗脳することで生じます。そうでなくても、子どもがいっしょにいる親の顔色をうかがって喜ばせるために「会いたくない」と言うのは普通のことです。

日本の裁判所では、子どもをもう一方の親から引き離して手元に置いた親に親権を与えます。弁護士や女性支援の現場では、「母子の保護」を名目に、「親権がほしかったら子どもを連れて家を出ろ」とアドバイスをします。子どもと引き離された親が裁判所に行くと、裁判官や調停委員は、いろいろと子どもや(元)妻との関係について揚げ足をとり、月に1回2~3時間の子どもとの接触しか認めません。これが守られる保障もありません。

親権をめぐって、双方の親が回復不能なまでに傷つけ合い、その結果親子関係も破壊されます。単独親権がそれを引き起こしています。

社会を変えるために民法を変える

単独親権制度は戸籍に合った家族の形(家制度)が普通、それ以外は例外、とする差別を前提とする制度です。しかし、未婚、離婚、そして結婚して子をなすかどうか、それは男女の問題であって、その責任を子どもが負わされてはなりません。

それに昔と違って、今は男性の子育てが奨励されています。女性が親権を取れるようになったから、という理由で子育てから男性を排除したり、単独親権だからといって「女手ひとつで」の子育てを美徳としたり、それで当の当事者が楽になるわけではありません。単独親権制度があるおかげで守られてきた家族の形は、もう今の時代に合わないのです。

子どもをなした親に子育ての権利があり、親は子どもの成長に責任がある。

私たちは離婚して子どもに会えないから権利を振りかざしているわけではありません。それは当たり前のことで、相手との関係が信頼関係があると思っているカップルは気づいていないか、気づかないふりをしているだけです。 それが通用しない日本の民法、いつまで今のままにしておきますか。