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「法を私たちの手に」するために「弁論を開け」の声をいまここで

最高裁に弁論を開かせる

 1月25日に東京高裁で不当判決が出された後、上告理由書等を4月初めに提出。早3カ月となるけど、決定がいつ出されるかは最高裁の場合はわからない。その間、月例で最高裁への情宣や要請行動を行ない、7月12日で4回目となった。この間、少ない人数ながらも最高裁に弁論を開かせるための努力を地道に続けている。
 最高裁判所で下級審の判断を覆したり違憲判断が出されたりする場合には、1度だけ弁論が開かれることになる。単独親権制度の違憲性を訴える立法不作為の違憲訴訟は、ぼくたちのもの以外にもう1つあり、その高裁判断においては、自然的親子権の憲法上の利益について言及していて、親の権利を否定し、婚姻外の「差別的取り扱いは合理的」として本判決の判断とは対立している。

本来なら下級審の高裁判断を統一するために最高裁は弁論を開かざるを得ないはずだ。しかし一方で、担当の最高裁第二小法廷は、連れ去り国賠訴訟での不当判決を確定させた裁判体でもある。下級審での不当判決をなぞって改正民法の法解釈を先延ばしして混乱を継続するのか、それとも基本的人権に立ち返った指針をここで示すのか、問われているのは最高裁だ。
6月の要請時には、集まった107筆の署名を書記官に提出した。毎回要請の前後には昼休みに出てくる職員に対してチラシを配り、裁判官の部屋に向かってマイクでアピールしている。二次署名を8月末日を期限に集めている。裁判所が公正判決をする場なら本来不要な努力だ。しかしそういう官庁ではないことはぼくたちが一番知っている。
裁判所類を提出したから裁判が終わったわけではない。

私たち抜きに私たちのことを決めた、民法改正審議

 この間5月17日の参議院本会議での採決まで、改正民法の審議が行われた。単独親権の撤廃を求めてきた進める会はこの法案への反対を表明した。理由はこの法案は単独親権制度の温存法案であり、指摘した通り法改正自体が改革偽装だからだ。
 婚姻外に共同親権を「選べる」といっても、子どもは本来親を選べない。「選ぶ」というのは、親の都合で子に親をあてがう(あるいは奪う)ことであり、要するに国に都合がよくない親は子育ての権利を奪われる。そしてこの国の国家体制は戦前も戦後も男女平等や個人の尊重ではなく、家を基軸に構成されてきた。
その点について言及せずに法案に反対したリベラル、左派の運動と政治党派は、「別居親」への罵倒行為に注力され、正直見るに耐えないものだった。この点について繰り返さないけど、法案を本来擁護する側の与党議員が、寄せられた司法への不信の多さに言及しているのは特筆ものである。親権選択について、最終的には司法判断にゆだねられる改正民法に対し、与党議員も期待薄であることを吐露した場面であった。
一方本法案審議の中で、子どもに会えない親当事者が一人も名乗って発言する機会がなかったことはもう一つの特記事項である。改正法案は司法のための改革偽装であり、故に親の権利を主張されるのは審議の中でも避けたい。国家の側の一貫した意思を感じる。

「法を私たちの手に」するために 

 改正民法は夫婦ではなく、本来法以前の存在であるはずのすべての父母に、協力義務や人格尊重義務を課す。国家による道徳規範の押し付け(司法による家族介入)に、リベラルも含めた批判の声は弱かった。そもそもこの国の家族は戦前は国家の下部機構であり、戦後は司法を通じて同じく国家の統制下に置かれてきた。それに対して疑問を抱くことすらできないほどに、ぼくたちは牙を抜かれてきた。

「法があって人が守る」のではない。「人のために法がある」のだ。
すべての人は父母から生まれてきた。その父母の権利をないがしろにすることは、私たちのよって立つ基盤を国が奪うことに他ならない。最高裁に反省させ「法を私たちの手に」するために、「弁論を開け」の声を最高裁に寄せてほしい。(2024.7.16宗像 充)

署名を集めて送ってください。そして最高裁要請に参加してください。

(2024.7.25 宗像 充)

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