院内集会「共同親権で家族はどうなる?」(共同親権・男女平等な子育て)

令和4年6月9日は、衆議院第二議員会館で午後4時より「共同親権で家族はどうなる?」と題した院内集会を行いました。

まず、主催者代表として宗像よりあいさつがあり、第8回口頭弁論に来てくださった方々へのお礼と裁判の見通しの説明がありました。

次に、院内集会に国会議員ご本人としてご出席くださいました参議院議員の嘉田由紀子議員からご挨拶を頂きました。

 嘉田議員は、参議院に当選して7月で丸3年になるそうです。

その間、共同親権について40回質問してくださったそうです。

特に嘉田議員が強調してお話してくださったことは「この度、法制審で家族法についての中間報告が報告されるが大変なことが起きている。法制審では、子どもの連れ去りを合法化して、表向きだけの離婚後の共同親権に変革する案でまとまろうとしている。全く子どもに向けての話し合いになっていない。子どもを連れ去った親が有利になるような制度が設計されようとしている。子どものための法制化が必要。」などと法制審の中間報告への警鐘を鳴らしてくださいました。

また、司会から本院内集会には、牧原秀樹議員の秘書も駆けつけてくださり、また、末松義規議員のご尽力により本院内集会を開催していることに対して感謝の弁が述べられました。

第8回口頭弁論レポート

その後、弁護団から本日の裁判に関する報告がありました。

第8回口頭弁論では、傍聴席が満席になり、とても多くの方々にお集まりいただきました。今回から裁判長が交代になり、新たな裁判長の元、裁判が進められることになりました。

稲坂弁護士からは、本裁判は、令和元年の11月22日に提訴され、令和2年の3月12日に第1回審議があり、その後、コロナなどで延期もあったため、足掛け3年が経過したことが述べられました。

また、これまで、原告第3・第4準備書面で単独親権制度の合理性がないことを主張し、裁判長からも国に対して求釈明に対して付言がある等、国からの正当な答弁がなされると期待されたが、被告(国)の第5準備書面では、これまで求めていた議論が深まらず、抽象論に逆戻したそうです。

この裁判は、未婚・離婚後の単独親権制度の立法制度について問うた訴訟なのに、被告は、令和3年の判例を持ち出して親権制度の話にすり替える等、こちらの主張をそらす反論しか出てこなかったと、述べられました。

また、質問コーナーでは、国に相手取った裁判とは何か?国の本体って何かとの質問がありました。

この質問に対した、嘉田議員が「国とは何か?国は、本来三権分立で、立法・行政・司法が独立していなければならない。しかし、日本は三権が分離独立していないことが問題の根本原因としてある。」と述べられました。

さらに嘉田議員は、法務大臣の諮問機関である法制審議会でも法務省の役人がいっぱいいて、平等な議論がなされていないことを強く指摘してくださいました。

次回の裁判は、令和4年9月22日午後3時より東京地裁第806法廷にて実施されます。今後の裁判では、原告や専門家の人証について検討される見通しとなっております。

共同親権で家族はどうなる?

そして、院内集会のメインイベントである鼎談「共同親権で家族がどうなる。」が始まりました。

参加者は、紀藤 正樹氏(弁護士・リンク総合法律事務所・面会交流保全国賠の弁護人)

永石 尚也氏(東京大学大学院准教授・法と科学)

宗像 充 氏(原告・当事者として)

司会 大山直美氏

です。

共同親権の妥当性

まず、司会より「ここでお話する、共同親権とは、婚姻を問わず、離婚前後も問わないことを前提としている」とのお話がありました。

はじめの質問として「共同親権の妥当性について」の見解を各パネリストに質問しました。

紀藤氏より、共同親権の妥当性については家事実務全体に係ることであり、基本的な構造として裁判所に問題があることの指摘がありました。

本来は、家事実務全般を当事者間での話し合いに基づいて解決していくのが家庭裁判所の趣旨であり、以前は、話し合いの場と書いてあったそうです。

それが、近年、家事法制の変革で離婚裁判が地裁から家裁の裁判官一人が判決を作る場に変わってしまったこと。通常、地方裁判所なら3人の裁判官が判断するが、家裁は1名の裁判官なので、調整がなく、かつ、責任が一人になるので枠から外れた判断ができにくいこと。そのため前例変更の判決が書きづらく、家裁自体が硬直した判決を出す形式的な場となった、と述べられました。

 また、日本は戦前、単独親権だったものを戦後、共同親権にして憲法の大転換(価値観の大転換)が行われたが、本来で言えば、離婚後も共同親権にすべきだったこと。しかし、離婚後だけ単独親権を残してしまったこと。これが最大の問題であり、最悪でも選択適用にするべきであったと述べられました。

ただし、本来、選択制共同親権と言うのも、ジェンダーの観点でもまずいそうです。なぜなら、選択的とすると多くの場合、強者が勝ってしまうからです。

 なので、制度上のあるべきは、婚姻中も離婚後も分け隔てなく共同親権とすべきなのに、条文上、819条1項で離婚後、単独親権にしたのは違憲であると述べられました。

 宗像氏からは、子どもにとって親は2名なので婚姻に関係なく共同親権を考えるのは、当然の前提であること。逆に単独親権の妥当性を考えるなら理解できるが、単独親権にこだわる人々は、単独親権にこだわる理由を説明してくれないこと。

そもそも単独親権にこだわる人々は、DVの問題として共同親権に反論してるが、DVは親権の問題ではないので議論がかみ合わず、かつ、結局、子どもには会わせたくないけど金だけ欲しだけでしょと指摘すると怒ってくるのでその通りかと思う、と述べられました。

家族団体主義

また、宗像氏は、この問題を語るとき、自分は何と闘っているのか?考えることがあるそうです。

先日、子どもと2回目の引き離しがあったので、面会交流の決定を守っていないと言うことを明らかにするために裁判で元妻を呼び出し、どのようなプロセスで面会交流の決定を守らない(会わせないこと)のか?と尋問したところ、「家族で決めました」との回答があり、私は娘の家族ではないのか?と問いただすと黙秘されたそうです。

その時、私が家族と言う団体からはじき出された人間であり、家族と言う団体主義と闘っていることに気が付いたと言うことです。

別居した家族の中の意思決定では、はじき出された家族の意見は、重要ではなくその法的根拠を担っているのが単独親権制度であること。

単独親権は、家父長が決めたと言っているが実際は家族の中から元パートナーをはじき出した親が、家族としての枠組みを決めて、はじき出された親は家族ではなくなったこと。

単独親権制度によって、向こうが家族を作って私は家族ではないと痛感した、述べられました。

永石氏からは、もともと家族法は、専門分野では無いが、法哲学の観点から家族法について意見を紹介すると述べられました。

永石氏も結論として共同親権に賛成で、理由として、現在における価値の変化が見逃せない点を挙げられました。

永石氏は、家庭という特殊領域をうまく法理論もしくは政治理論が掬い取ってこなかったことの反省が1980年代から盛り上がってきたこと。

コミュニタリアニズムの立場によるプライベートな愛に基づく集団を形成する主義と、他方、リベラリズムの立場による個人の自由を論じ、家庭は個人の内部・私的な空間であって法的な規律は及ばないとする主義と、これまで、その二分する議論が行われてきた。

しかし、その相反する二つの立場をケアと言う観点から、ケアする側、ケアされる側、の関係性から権利を考えていくことが必要であること。そのようなケアする観点がなければ、子が親に従属させれられたり、家庭内の権力関係問題を見逃してしまうこと、など、支援の欠如によって、実際上の権利保護が欠落していたことを指摘していました。

永石氏は、二つ目の指摘として、権利論をどちらの立場から見たとしてもケアに基づく社会構想が我々の親子関係の基礎にあるべきではないか、と提唱しました。法律婚以外の多様な人的血縁関係の尊重は、様々な人的結合を保障しようと言う現在の価値に沿うものと言えること。それが、離婚時であろうと未婚時であろうと法律婚外の親子関係を尊重して子の福祉を達成しようと言う価値のへの転換が現在においてなされていること。人的な結合を保障することによって、子の福祉及び親子関係の中身を充填していくと言う主張に繋がること。そうすると家族・家庭と言う像を転換する時期に来ていること。

家庭領域へのホームケアの実現を支援していく国家による支援をどのように充実していくのか。それは、家庭裁判所の能力限界の改革、家庭裁判所の判断不能な状況に陥っている立法の状況を充填する立法不作為の問題につながっていること。

先日の夫婦別姓訴訟で裁判官の反対意見があった。その内容は、世論調査の結果による婚姻の自由を重く見た反対意見であった。

同様に未婚・離婚後の共同親権もあるケア関係から強制的に離脱させられる点において、世論の問題と言えるのでは、との趣旨の話をされておりました。

どのような法的支援・制度設計が必要か?

「共同親権制度に反対する人の意見にDV被害者への不配慮、憲法24条との係りで国家権力が家庭に介入すること、自助共助の福祉政策の削減の一環、との批判を克服して、民法改正し共同親権へ転換するためにはどのような法的支援・制度設計が必要か伺いたい」との質問がありました。

永石氏からは、いずれの反対意見も論理的には、共同親権と関係ないこと。

それぞれ反対意見は、属人攻撃的な話でしかないこと。

DV被害者の不配慮や支援は、共同親権と関係なく支援することが必要であることが述べられました。

次に、紀藤氏からも、DVと共同親権は関係ないこと。

共同親権は、子どもの利益から考えるべきであり、子どもの利益は、民法にも、ハーグ条約にも記載があり、共同親権では最も重要な柱であること。

子ども利益と親のかかわりをどうするのが共同親権の問題であり、DV問題と全く結びつかない論点であること。

例え親が犯罪者であっても子どもは親に会いたいと思えば、子どもは犯罪者の親に会えるのが日本の現状であり、親子の面会についても、子どもが親に会いたいか子どもに選択権を与えるべきであり、親が決めるべきではないこと、また、子どもは生む親をえらべないことを述べられました。

そのため、子どもの利益を考えた場合に親ではなく国が判断するべきあり、国の役割が重要となること。国が、子どもが親に会う権利があるならそれを守るのが国の義務といえること。そのような、子どもが親に会えるような仕組みを保護する国の制度設計の一つが共同親権であること。

今の国の制度設計では、子どもが親に会う権利を全く保護していない。

子どもの権利条約第5条に親権の実態は、責任であり、権利であり、義務であると書いてあり、契約国の義務であると記載されているのに、日本は、国内法でこの子どもの権利条約5条の法律を整備していない。

法の不整備で言えば、ハーグ条約も国際法に整合する国内における子の奪取の民事上の側面に関する法律を作るべきである。

ハーグ条約の前文では「子の監護において子の利益が最も重要であることを深く確信し、不法な連れ去り、不法な留置によって有害が影響から国際的の保護する。」とされ、日本政府は、この条約で国際的に認めたのに国内法には同じ条文がない。明らかに不平等であること。

なぜ、この条文を作った時に国内間の子の奪取に関する法律を作らないのか非常に疑問であること。

ハーグ条約の不徹底

また、ハーグ条約では、不法な連れ去りと不法な留置を分けていること。

ここは重要で、仮に子の連れ去りが不法な連れ去りじゃないと判断されたとしても、その後、連れ去った親が別居親に子どもを全く会わせないことは、違法なdetentionとしてハーグ条約上の違法な留置となること。

親子を1年も2年も引き離す権利が片親にあるのかという点で、ハーグ条約では連れ去りと留置を区別していること。

しかし、日本の裁判実務では、裁判官にハーグ条約を理解する知識がなく、連れ去りとその後の留置を分けずに不法な留置を無視した家裁の運用を続けていること。

ハーグ条約の考えが全く運用されていないのが日本の裁判実務であり、また外務省もハーグ条約の内容を周知していない。

その結果として起こっているのが、子どもの引き離しからの離婚した夫婦の信頼関係の破壊であると述べられました。

永石氏からは、共同親権の導入の法的支援や制度設計の考慮にあたっては、人的な交流の中身について、何をするのか?を充填する必要があり、権利の保障はどの権利の何の内容か?その決定を立法に任せるのか?市民社会で引き取るのか。また、両者のコンフリクトに対して国家がどこまで介入するのか?を議論する必要があるのでは、と述べられました。

民間法制審中間試案に足りないこと

また、司会から「民間法制審家族部会から独自の試案が出て自民党高市早苗政調会長に提出されたが、その内容の講評も含めて法的支援・制度設計として何がよいか」について質問がありました。

まず、宗像氏からは、日本政府の法制審では中間発表を出して、8月中にパブリックコメントを求める様だが、なぜか日弁連には事前に聞き取りをしているようで密室で決められているような感じがするとの話がありました。

また、その状況下で、民間の法制審が提出されたこと。民間法制審の意見は、そのひとつずつ指摘は鋭いが、現状認識として間違っているのは、連れ去りが横行しているので、放置すると男は怖くて結婚出来ないと結論付けたが、結婚しない理由は他にあるのではと言うこと。

結婚しないのは今の結婚制度が勝ち組の特権だからではないか。自分の面倒が見れないのに家庭の面倒を見れないというのが本質ではと思っていること。

結婚制度を維持したかったら、結婚のリスクや負担感に目を向けるのが必要ではないか。すなわち、家庭を持ちたいとして結婚、離婚を選択する時に、離婚で幸せを得るために国家がどのような支援ができるのかと言う視点が国に欠けていること。

法務省の作っているたたき台は、問題のある親を作りだして、その親に対して引き離しても仕方ない、引き離した方がよいとのルールを作っていること。新しく決まりを作ってそれを守られないと問題のある親となって支援を受けられないというおかしな形になるとの懸念があることが述べられました。

未婚の共同親権

紀藤氏からは、民間法制審は非嫡出子の問題を乗せていないこと。婚外子には未婚と離婚があるが、そこの配慮をしていないのは、あえてしていないのか、目が届いていないのか不明だが、未婚と離婚を論じていないのは問題であること。

なぜ、未婚と離婚を分けていないのかを考えたときに結婚制度と言う制度を守る目的が見えること。

しかし、本来は、子どもの立場からの制度設計を考えるべきであり、子どもの立場・視点から見れば、未婚とか離婚は関係がないこと。また、親の法的立場を基に子どもの法的な利益不利益を区別すること自体がおかしいと考えるのが原則共同親権と考えるべき視点であり、その視点が欠けていることが述べられました。

永石氏からは、未婚時・離婚時は親の地位であり、親の地位と子と親の関係は法的には切り離されるものであること。

基本的には、親の法的地位と子どもとの関係は切り離されるところから考えて、ケア共同体として考えるべきではとの趣旨が述べられました。

また、宗像氏からは、例えば、子どもを連れ去られたら親の配慮ができないから単独親権が子どもにとってダメなのだけども、かつて、男性が単独親権を取れていた時代に、逆に当時の親権が取れなかった女性のために民間法制審のような共同親権の提案をしていたのかという疑問があること。

女性が親権を取れなかった時代に同じように共同親権を主張してくれないとやっぱり良くないので、その平等性をしっかり議論して欲しい、との話が述べられました。

男女平等な子育て、家族はどう変わる?

次に、司会からは、「単独親権は、子育てをどちらかに押し付け、子育ての結果責任を押し付ける見方もできる。男が働けばよい、女は子育てすればよいという性役割を固定化する。しかし、私たちが求めている共同親権、すなわち男女平等で子育てが実現すると、家族の形や在り方はどのように変化していくと考えているか? 」との質問がありました。

永石氏からは、夫と妻が両方とも共働きで、子どもの学校の時間と親の労働の時間を例に話すと、今までは、学校から家に帰るとパブリックからプライベートに切り替わるが、親が共働きで子どもは午後3時に学校から帰ってくださいと言うときにプライベートとパブリックの切り分けが論争になること。すなわち今まで学校後のプライベートに押し込めていた問題が、共働きが常識になることでいつ学校が終わるか、いつ学校から帰ってくるか、学校後の育児・保育・教育があるかないかが法的な問題に転換すること。時間管理みたいな問題もパブリックとプライベートの領域は、常に社会情勢と連動していることになること。多様な家族像を受け入れる、あるいは、ケア関係を受け入れるということは、様々な問題にアジャストできる支援の枠組みを作ることに繋がるのではないか、との話が述べられました。

紀藤氏からは、三段論法で考えるのではなく理想の世界像で考えるべきとの提言がありました。

理想の世界像では多様性を受け入れる社会が前提になること。DV被害者の問題もDV防止法が整理されていない問題があり、DV防止法でDVシェルターがしっかり管理されていないといけないこと。

これらをしっかり管理するには、法律が制度設計としてしっかりと整備する必要があること。

共同親権の枠組みも同じで、離婚後、単独親権となっているから、親権者を決めないといけず、役割分担になりがちなこと。今の役割分担は女性が子育てする役割が多いので、女性に親権を与えるという役割分担的前提の制度設計になっていること。

もし両者が普通に子育てしていたら役割分担的な制度にならないはず。むしろ共同親権が誘導されていくこと。

社会がどうあるべきかが前提にあるが、現実にあるべき論が議論される過渡期においても単独親権を許るすべきとは言えず、過渡期であっても理想を言い続けるべきであること。

家庭裁判所の思考停止

児童虐待では、通報すれば子どもは最長2カ月保護されるが、虐待か否か結論は2か月間で決める。DV防止法も最低で6カ月で決める。ハーグ条約は、6週間で決めるのに、子どもの連れ去りは、1年も2年も何年もかかること。

子どもは、親から離れる期間が長ければ、長いほど、子の福祉・子どもの利益に反するとすれば、法の整合性を考えたときに、ハーグ条約は6週間であるし、児童虐待防止法で2か月間であるし、DVの事案でも6カ月で考えると6カ月以上の親子の引き離しは異常であると考えるが、なぜか家庭裁判所はそのことを理解してくれず、全く裁判官の頭の中が理解できないこと。

裁判官は、子の利益を守るという点では思考を停止していること。子の利益を誰が守るのかと言うと裁判所が守るわけではないこと。裁判官は、子の利益を守るのは親であり、国であるが、そのような子どもの利益を守る親や国のことを考えてくれないから、審理ばかりに時間をかけて、子どもを返すこと、子どもと会わせることが念頭にないこと。そのような制度設計になっていることが問題であること。

制度設計を変えないと裁判官が動かないなら法律を作るしかなく、法律でしっかり決めるため子どもの連れ去りなんかは特別法を作るべき、と述べられました。

宗像氏からは、単独親権であるがゆえに家族が役割分担になっているので男が仕事しないで子育てできる社会を作りたいと思って始めたのが共同親権運動だが、過激な思想と言われたこと。

また、共同親権の話で法務省が恐れて触れない話題があることが述べられました。

その話題とは、離婚後の子育てにおける交代居住や実質的な養育時間の平等であり、法務省はこれについて毛嫌いするぐらい議論から切り離しているそうです。しかし、交代居住や実質的な時間の平等を実践して幸せな元パートナー同士もいて、子どもも幸せそうであることが述べられました。

周りがこのような実質的養育時間の平等の手法があることを周知したり、支援したり、法律的な支援という点では、制度として設けることも考えられること。色々な支援があれば、実質的な時間の平等の子育てができる社会になること、が述べられました。

また、その様な平等な養育時間に対して子どもがあっち行ったりこっち行ったり可哀そうでしょう、ではなくて、両親が離婚しても子どもが両方の場所に行きかって、両方から愛情を受けられて素敵だね、と言えば良いのに誰も言わないから問題な方法と思われているだけあること。そのような実質的な子育て時間の平等がモデルとなって一般化するのが重要だと思うこと、が述べられました。

逆に、実質的な養育時間の平等を実践している元夫婦は、単独親権という制度の中で、養育費の負担とどうするのか、行政の中で親権者にしか認めていない問題をどうするのかという点で悩んでいること。国は、そのような共同養育をしている元夫婦をどうして支援しないのか。だったら共同親権と言う法制度があった方が良いのではないのかという視点でやっていくのがこれからすごく重要になっていくのではないか、と述べられました。

カルト問題と家族問題

最後に、司会からは「公共圏との考え方では家族の形が変わると社会も変化していくと公共圏が変化するが、その変化で意識や生活がどう変わっていくのか」との問いかけがありました。

宗像氏からは、家族の在り方の議論で子どもも別居親に会えるように早く家を出て自立すればよいが、現状は、子どもが別居親に会いたいと言っても社会的なケアがない状態であること。

個人が自分の夢や希望をかなえる際に、家族の支えがあるとすごく励まされし、そういう役割として家族があり、そういった家族の在り方を支えるものとして法があると思うこと。

個人の変化から国が変化して法も変われるとの考え方でいられるとみんな幸せになるとのお話がありました。

紀藤氏からは、家族の問題は宗教・カルトの時代からあった問題であり、1970年代から親泣かせ原理運動などがあり、その後、1990年代でオーム真理教事件が起きたりして問題になったこと。

宗教問題の最前線では、家族問題として扱われたことが多かったこと。当時は、子どもの連れ去り問題でも人身保護請求が頻繁に起こされており、子どもの連れ去りによる人身保護請求も当時は1カ月以内に結論をつけることとされていたそうです。その頃は、原則、家族の子どもの連れ去りは違法であり、判断も地方裁判所が判断し、親同士の仲裁的解決をさせており、地方裁判所なので判事も3人で裁いていたそうです。しかし、人身保護が段々と使われなくなり、面会交流の問題に変わってしまい、家庭裁判所の案件となり、人身保護請求が使えない制度に変わり、一カ月以内に判断を求めることができなくなり、今みたいな状況になったとの話がありました。

 また、カルト問題と家族問題は保守的に考えられているそうです。

なぜ保守的については例えば親が宗教にはまって子どもが宗教に入りたくないと言って親から離れて施設に自分から行く子どももいること。そのように子どもの中には家族と一緒に居れない子どもが沢山いるそうです。故に親と子の関係を考えた時、子どもと親と一緒に暮らすことが子どもの利益とも限らないと言うことです。

すなわち、子の利益がとても相対的であること。しかし、相対的であるからこそ、子どもの利益から考えて、子どもが親に会いたいと言っているのに親子が会うのに妨害を受けるのか?と言う疑問が生じること。

子どもが親に会いたいと言っているのになぜ、同居親が妨害するのか、子どもの選択権を確保するには、子どもが親から離れたい権利と子どもが親に会いたい権利を、子どもの機会の平等・機会の保障として確保し、そこに親や外部の価値観や恣意性が介入させないような制度設計は何なのかと考えた時に、共同親権と言うのが重要な柱であると思うこと。

単独親権は、もともと戦前から残された価値観を現在も使い続けているだけであり、なぜ、現在でも戦前の考えを引きずり改めないのかという問題。

また、事実婚だけでなく、不倫や婚姻費用・財産分与・夫婦別姓など、全ての問題が家裁の家事手続になっていること。

これら各分野の最先端の議論が全て家庭裁判所一手が担っているが、ダメダメな家庭裁判所では裁ききれないことを法制審は理解していないこと。

まず、家事手続における業務の全部を家裁だけに担わせないように見直す必要があること、を述べられました。

また、紀藤氏は、現在の面会交流国賠のホームページにハーグ条約と国内法の問題を記載しているそうです。

そこで、ハーグ条約の原文と政府訳を対比しているが政府訳が非常に恣意的であることが理解できること。

アブダクションを「奪取」と訳したのは外務省の「誘拐」と訳さない意思が感じられること。誘拐と訳すべきだが誘拐と訳さない点に外務省の気持ちが表れ、この問題を周知徹底しない意思を示していること。

この問題には大きな問題が隠されており、そのような隠されている部分にも目を向けて欲しいこと。家事裁判の実務で悩んでいる方は、たくさんおり、事実婚や夫婦別姓・不倫・コンピ・財産分与でみんな悩んでいること。苦しんでいるのは、自分だけではなく、色々苦しんでいるところに目を向けてくれればと思う、と述べられました。

子どもの意見表明の行方

永石氏は、子どもの意見表明が大切で、子ども本人が物事を決めていく、周囲が助言するのではなく、子どもにイニシアティブを持たせることをどように考えていくかが重要で、これについては、実体的な権利と言う意味でも興味深いし、手続的にどのように意見参画するのか意見表明を位置づけていくか非常に興味深い論点であること。

公共圏は子どもの選択する権利をさらに包含した形でどういう風に市民社会として我々がそのような価値というものを形成していくのか。

市民の声が立ち上がってきたように、ある種、相互に対等な地位として承認しあえるような承認の分配がなされる様な公共空間とはどのようなものでありうるのか。

それと親密権といわれるインティメートな関係との代わりとはどういうものなのか。

公共と言う部分と私的な領域の区分が多様な家族像とか生活の中で融和して、あるいは仮想的に構成されていること。

そこで子どもとの一緒の離脱を認めたり、大人の参画、多様な家族で悩む方々の連帯であるとか、そう言うものを構成していくフェーズになったのではないかとの趣旨の発言がありました。

また、別姓訴訟の判決で裁判官の一人の渡辺判事は、世論の動向・国民の意見を参考に国民の意識を前提にする反対意見をだした、と言うように世論に向けた情報というものが制度の中に媒介されていくためには、我々の中でどのような家族像を提示していくのか、そのものが皆さんの活動であり、現在の兆しとなると述べられました。

以上をもって時間となり、鼎談「共同親権で家族がどうなる。」が終了しました。

感想

 今回の議論を聞いていて、改めてDVと共同親権は無関係であり、DVで共同親権に反対する方々は、お金だけ欲しくて子どもと別居親を会わせたくないんでしょうと言う指摘そのままと実感しました。

 また、子どもの意見や意思を保障する観点で、同居親の影響を如何に排除して子どもの意見を汲み取るかの問題や、本来は、子どもの連れ去りは、人身保護請求で地方裁判所が管轄したのにダメダメな家庭裁判所に移管されたことで、一人の裁判官が、自信なさげに前例主義を踏襲していることについても問題を感じました。

 ハーグ条約についても外務省が「誘拐」を「奪取」と恣意的に誤訳して情報統制したりする姿を見ると、日本は、未だ単独親権を維持するために戦前の非民主主義国家の延長でしかないことを実感しました。

 今回の議論を通じて、改めて情報を如何に周知して世論を味方につけて、未婚・離婚後の共同親権を実現し、同居親の影響を排除した子ども達の選択権を確保することで、日本では未だ実現できていない子どもの最善の利益を確保するように努めたいと感じました。(K)

子どもの意見表明権との関係で、子どもが親に会わない権利については議論を深める必要があると感じました。妨害する親が子どもに「会いたくない」と言わせることはあるからです。(宗像)