共同親権訴訟(11月22日)への応援メッセージ

 子ども会えない環境におかれている我々にとって、最も辛い子どもの誕生日と、この年末のクリスマス、大晦日、正月と心引き裂かれる時期が近づいてまいりました。
 さて本日は12人の父母の皆さんの国家賠償請求を提訴される日という事で、その場に立ち会えない事は大変に残念であります。私も実の娘と引き離され約6年が過ぎ、今年の3月に2時間ほど面会出来ましたが、9歳から14歳まで会えたのがたった2時間です。世界を探してもこんな国はありません。国が法が、制度がこのままならば、私達の子供達が親になって、また子供に会えない社会を残してしまう事になります。
 先に行われた、浅草での行進。
 そして本日の提訴。世界の悪しき制度が変わる真の革命にはどの時代も、民衆の行進と民衆が立ち叫ぶ裁判の二つが必要不可欠とされています。
 今日それが見事にそろい、大きな旗を掲げる日となりました。その旗は日本中で苦しんでいる沢山の親子、なかんずく子供達の応援する声で大きくはためいている事でしょう!
 どうか今日のこの日が、日本の親と子の絆を取り戻せた歴史に残る日になりますよう心からお祈りさせて頂いてお祝いのメッセージとさせて頂きます。

令和元年11月22日 高橋ジョージ

「アタッチメントによって深く刻み込まれた親と子」

田中俊英(一般社団法人officeドーナツトーク代表) 

僕はもう20年ほど不登校やひきこもりの人たちの支援をしています。

最近では、発達障害や児童虐待のサバイバーの支援をすることも増えました。主として、それらの問題に関わる保護者への面談支援をしています。母親が大半なのですが、時おり父親が現れ、そしてその中に、離婚問題にともなういわゆる「連れ去られ親」の方が含まれることもあります。

それら父親たちは、今回の訴訟当事者のみなさんがご経験されたように、ある日お仕事から帰ると忽然と家族がいなくなっていました。父親たちは、最初はその意味がわからず呆然とするのみのようですが、やがて事態に気づき、なんとかならないかと模索し行動するようです。 けれども、現在の日本のシステムではどうにもならないんですね。その理由はこれまでもさんざん語られてきましたし、今回の訴訟でも述べられるでしょう。

僕が今回の共同親権の問題に関心をもったわけは、それら父親たちの「悔し涙」というか、なんとも表現し難い苦渋の表情なのです。 彼らは固く歯をくいしばり目を涙で滲ませ、子どもたちと過ごした出来事を語ってくれます。そして、彼らにできることをやってきたにも関わらず、今はどうしようもない無力感を漏らします。また、そうした圧倒的無力感を抱えながらも、子への愛を訴え、けれどもその愛が子にとってはすでに迷惑なのではないかという絶望感も述べます。

僕はDVサバイバー女性の支援にも少し関わることがあるので、最初は慎重でした。ですが、彼らのそうした苦渋の表情は、彼らがいま離れ離れになってしまった子に対して、今も「アタッチメント」していることを僕に示しました。アタッチメント、つまり、意識より深い部分にある、自分ではどうしようもない部分での、「他者との密接なつながり」です。 そうした他者との密接なつながりは、おそらく、「権利」といった近代的価値よりもだいぶ「手前」に位置していると思います。

我々は、自分の気づかない部分で他者と密接につながり、そのつながりが生きる土台や基盤になっていると、僕は「哲学」から学んできました。 父親たちの呻き声と涙は、子との固いつながりを滲み出していると、僕は感じました。また想像ですが、子も、そうした一方の親(別居親は主として父たちです)に対して、意識の範囲である言葉では説明ができない「くっつき=アタッチメント」を有していると思います。

そうしたコミュニケーションの土台であるアタッチメントでつながる人々を、単純な親権の問題で片付けたくはありません。いや、近代社会に生きている我々が「親権」という価値を受け入れなければいけないとするならば、せめて、機会の平等を示す共同親権を選択したいと思います。 土台として共同親権を選択し、そのあとでDV対策等をするのが物事の順番だと僕は思います。そして、機会として最初から保障された共同親権があれば、アタッチメントによって深く刻み込まれた親と子が今よりは少しだけ安心できると思います。 共同親権を僕は支持します。