親の権利を言おう

「面会交流の権利性」

子どもとの面会交流は憲法上の権利で、実現のための立法措置を国会が怠っているのは違法だとして、国を訴えた訴訟の控訴審判決が13日、東京高裁であった。白石史子裁判長は原告の請求を退けた一審東京地裁判決を支持、訴えを棄却した。
判決は「憲法上保障された権利とは言えない」と述べ、「面会交流の法的性質や権利性自体に議論があり、別居親が権利を有していることが明らかとは認められない」と述べたという。
かねてより、面会交流の権利性が議論の的になり、その場合、親の権利か子どもの権利か、あるいは親に権利性はあるのか、について論争が続いている。どんな権利も議論はあるけど、「法的性質や権利性自体に議論がある」こと自体が、別居親の権利性を否定する根拠になるわけない(櫻井智章「面会交流権の憲法上の権利性」法学教室2020年3月号)。

「権利ではなく義務」というその理由

「面会交流は親の権利ではなく子どもの権利」
「親権は権利じゃなくて子どもへの親の義務」という主張をよく聞く。親が会いに行かなければ子どもは親に会えないのだから、親子双方に権利があるに決まっているし、子どもの面倒を親が見ないで他人が子どもの権利を主張したところで意味はない。「あなたやあなたの兄弟や親せきに子どもがいるなら、施設に入れてからまず議論したら」と言い返すことにしている。
一方で、海外では、親責任や親の配慮と、親権という概念自体が変化してきた。だから親の権利性自体を否定したがる議論が、共同親権に賛成の人の中でも多い。法務省の議論もそれをなぞっている。
こういった議論は論点のすり替えに陥りやすい。権利の概念を個別に論じることで、親の役割が社会の基準でいかようにも規定されることになりがちだ。単独親権制度では親権のない親の権利を否定しても、それが親の役割ならば肯定される。
例えば、ドイツが「親の配慮」と親権の概念を変えても、ドイツの連邦基本法には、子の養育と教育は、親の自然的権利とある。アメリカは親権に関する考え方から、子どもの権利条約に入っていない。フランスでは「親の権威」という言葉を使うけど、父母に固有のものであるとの規定もある。そしてどの国も共同親権に移行し、親の関係と親子関係は分離されている。
日本ではもともと「裁判所は親権指定においてフェアである」「親権指定されなかった側は『問題がある』」という誤った推定があり、しかも、こういったデマを法律家がまきちらしている。現状権利ではなく義務や責任だけ強調すれば、親権のない側の権利性だけを否定し、親権差別の根拠にできる。だから、単独親権温存派は、あえて権利性を否定するために親の義務を強調する。単独親権制度の立法事実を否定するための親権議論だ。

単独親権制度とは男女平等の否定と性役割の強制

例えば、職場で女だけがお茶くみをさせられたりすることに対し、不平を言ったら「義務を果たしてから権利を主張したら」と言われたら、どんな気分になるだろう。親権議論とはリンクさせず養育費の義務化のみを主張することは、日本語に翻訳すれば、「男が子育てなんて、義務(金)を果たしてから権利(子育て)を主張したら」ということになる。
白石裁判長が、「法的性質や権利性自体に議論がある」ことを理由に、権利性を否定するというのは、要するに、「四の五の言わずに男は黙って金払え」ということだ。
「面会交流を親子交流にしよう」(親子はそもそも交流する対象ではない)とか、「支援がないから共同親権は無理」(DVシェルターに公的資金を投入するためにDV法をつくったのに)とか、そんなことを言っているぐらいなら、「共同親権が最大の子どもと家族への支援」と、別居親たちもなぜ言わないのだろう。
 権利とは幸せになるための選択だ。
だったら、子どもと触れ合う十分な時間をもつことが権利でなくてなんだというのだ。奴隷のように働き、「ちゃんとした親」を演じるために、疲れ切っていても絵本の読み聞かせをするのはたしかに義務かもしれないけど、それがあなたがやりたいことか。男も女も、好きなことができ、子育てでも仕事でも余裕のある日常を送れる。それを阻んでいるのが、性役割を強制する単独親権制度だ。
子育て改革なくして働き方改革はないし、単独親権撤廃はそのための一丁目一番地だ。

「裸の子ども」の福祉

先日、子どもに会いに千葉まで行ったら、子どもが待ち合わせ場所の駅前の交番前まで来て「帰る」という。娘は録音を命じられていた。「ちょっとまってよ」と追いかけたら、胸元にスマホを入れ(て録音する)た元妻の夫が現れた。何の事件性もないのに、娘を受け渡し場所の交番に連れ込む。先日は、彼が面会交流を近所の銀行のロビーで監視していた。前回は元妻といっしょに娘を引き連れて現れて、娘の顔を見せてぼくの前に立ちはだかった。
「今はぼくが子どもを見る時間だから帰ってください」と何度もお願いすると「つきまとうのをやめたら……」という。彼は法律上の養父だが、今は面会交流の義務者だし、なんで親が他人に、「つきまとう」と言われるのかと思うと傷つく。そもそもぼくのもとに娘を送り出したのは母親と彼なので戸惑いもする。
娘は彼の味方をするのに必死で、ぼくの言葉をなんでも否定するので会話にならない。娘は「お前なんか親じゃない」とぼくに言い、「こっちがパパだ」と彼を指す横で、彼は黙ったまま。元友達だし、まだ赤ちゃんだった娘をぼくが育てる様子を彼も知っている。娘の言葉より彼の態度に唖然とする。
子どもが親を決めるのだろうか。
親の権利を否定すれば彼の態度も娘の態度も妥当に思える。
だけど、親権や面会交流を論じるときに「子ども」と言ったとき、その意味するところは二種類ある。「親に対する子ども」と、「年少の子ども」だ(共同親権訴訟の稲坂弁護士が発見した)。親に対する子どもの権利や福祉を論じるときに、「年少の子ども」を対象とする権利を論じても意味はない。これを「裸の子ども」とぼくたちは呼ぶ。
親のことを第一に考えられるのは両親で、第一義的責任を負うのも両親だという前提のもと、子どもの権利条約における、「親に対する子ども」の権利は構成されている。それを「年少の子ども」の意味で使えば話がかみ合わない。「万引き家族」はこの二つの「子ども」の間のズレをめぐって引き起こされるドラマだ。
「年少の子ども」の福祉を自分なりに考えて、彼は「つきまとう」とぼくに言ったとしてみよう。だけど、「親に対する子ども」をもとに論じれば、面会交流は子育ての時間だ。娘とぼくが言い合うのも親子喧嘩だ。娘が帰ろうとしても、子育ての時間に責任があるのはぼくになる。そこに子どもが望んだとしても登場すれば養育妨害になる。
「あなたのお父さんだから行ってきなよ。意見が通らなくてもあなたが解決しなきゃ」と、親子の権利を尊重して、子どもを送り出す親やその結婚相手も当然いる。もちろん最初からそう言っていたら、娘の態度も違っている。

(宗像 充2020.8.15)