親子が親子であるということ、それは人権

提起して何が変わった

 共同親権訴訟は2019年11月の提訴から、3月2日に原告側の最終弁論をもって結審を予定している。昨年原告の一人の柳原賢さんのお母さんから連絡があって、ご本人が病死したという。柳原さんは裁判の冒頭で、会えない娘さんがもうすぐ成人するので、時間が残されていないと語っていた。連絡をいただいて慌てて富山まで挨拶に行くと、柳原さんのお母さんが「賢のためにできること。みんなのためになっていると東京に行ってましたから」と引き継いでくれた。
 本訴訟の提訴は、当事者が顔を出して世論にアピールするという点で一定の効果を与えたと思う。外国籍当事者の働きかけによってEU議会が決議を挙げたのが大きかったものの、当時の上川陽子法務大臣が法制審議会への諮問を表明したのが、2021年1月になっている。弁護士が当事者をセレクトして、訴訟で立法不作為を認めさせていく立法活動の一手法にとどまっていないので、原告の訴訟への思いは様々だ。
4年も経つと子どもが成人したり、自分から連絡を取ってきたり、ぼくのように、毎回毎回娘が司法に呼び出されて意思を確かめさせられ、母親側として係争させられりと、状況もいろいろだ。共通して不十分な制度と無責任な司法に相変わらず振り回されている。
原告の中にも当初と違って顔名前を公表する人もいる。もし本国賠を申し立てていなかったら、それぞれの状況も違っていただろう。原告に名前を連ねて世論にアピールすることが、むしろ子どもとの関係においてプラスの側面があったのだろう。娘が国賠訴訟にも言及し「父が何考えてるかわかりません」と調査官に言っている。ぼくは娘へのメッセージとしてこの訴訟を提起した。

法制審議会VS民間法制審?

 ところで、民法改正は法制審議会への諮問と答申を得て行うことになっている。それに対して、民間法制審というグループが独自の法案を策定している。別居親当事者はこの法案があるから、反対派を押さえて共同親権が実現すると期待する人もいるだろう。本当だろうか。
 簡単な指摘だが、「こうすれば共同親権になる」という提案は「そうしなくても困らない」という意見に対して反論とはなっていない。
法制審議会諮問の目的は共同親権ではない。例えば、2年前2021年1月15日の日経新聞の見出しは「養育費不払い解消を諮問へ 法制審、共同親権も議論」になっているが、狙いは養育費不払い解消なのは最初から明らかである。人選も養育費関係の団体・識者が中心だし、その後の審議も優先順位がそうなっている。「現行制度でも面会交流ができる」ので単独親権制度をいじる必要はないという主張が議論では繰り返された。
 もちろん、民間法制審のレポートには、現行制度故の人権侵害の実態が赤裸々になされている。しかし、制度や秩序のためにはそんな被害は受容すべきという側が権力を牛耳ってきただけなので、もっと大きな被害を優先すべきと言われれば、政策判断で切り捨てられてしまう。「声の大きさで決めていい」と当事者が言うことでお墨付きを与え、声の大きさで制度改変がなされなかったというのが、親子断絶防止法も含めこれまでの流れだ。法制審に別居親枠が設けられたのも同じ狙いだ。
民間法制審の案もよく練られたものだと思うが、親子断絶防止法の当初案も、現行制度の中で実現可能という面でよく練られていた。当初案に対して骨抜きどころか逆行する結果になれば、何のための法改正なのかと思うだろうが、一応独裁国家ではないと建前上はなっているので、仮にそれが素案になれば修正は前提だ。
「現行制度でも子どもに会える人は会えている」に対する有効なカウンターは「こうすれば法案が可能」ではなく「現行制度でもお金を受け取れる人は受け取っている」である。人権問題に優劣をつけるのではなく、双方が同じ土俵で人権問題だと主張することだ。
同様に「別居親は危険」に対するカウンターは「その程度は被害ではない」ではなく「親が子どもと暮らすことは危険じゃないのか」になる。危険だから制約する必要があるにしても、だったら最初から国が見ればいいと誰でも思う。でもそうすると、いったい親とは何なのか。

何が足りないのか

 民間法制審の法案は、民法上の共同親権規定から「父母の婚姻中は」を削除したらいったいどうなるかをうまく示している。しかし法案がどうしても必要だという意見が別居親以外にはさしていないので、既得権の擁護派と比べると数からしたら苦戦必至だ。
また父母以外の祖父母や子と関係を築いた人の権利性を子どもの権利からしか規定できていないのは、つまり親権もまた政策的な選択の対象なので、それ以外の人の権利をうまく設定できなかったということなのだろう。これだと「面倒を見るのは親じゃなくてもよくないか」という意見が出た場合に、父母の権利を譲り渡す(単独親権)余地を与える。
 この点では、親権を自然権としてアピールした、作花さんが提起した一連の国賠訴訟においても同様の構造になっている。親権は父母の権利の制度的な担保だが、人権確保の手段は政策的な選択の範囲なので、代諾養子縁組で親を入れ替えることも可能になる。人権侵害だとは思うが、「政策判断していい」となれば、司法も「それは国会の役割」と逃げるだろう。
この点、権利侵害を否定しながら、連れ去り行為についての立法不作為に言及した連れ去り国賠の判断は、むしろ世論に押されて司法が立法権を侵害したと反論を受けかねない。ただし、こういった矛盾を引き出した一連の作花国賠の意義は大きい。連れ去り行為が権利侵害であるとの世論が高まれば、こういった矛盾は解消するからだ。
 

共同親権訴訟

 当事者を離婚を経験した父母子に留めている限り、政策的な判断と声の大きさに依存する構造は変わらない。
「子どもはお国のものではない」
 親たちは「みんながそうするから」と、「パパお金、ママ家事育児」の単独親権制度の家族観に従ってきた。別れれば「みんながそうするから」と子どもに会えなくても我慢し、女で一つで子育てするのは美徳とほめそやされた。かつては「みんながそうするから」と子どもを戦場に送り出してきた。もちろんそれらは「子どものため」だった。しかし本当にそうなのか。
疑問が生じた時、かつて自分たちを納得させてきた制度的な枠組みに回帰して、いったい何か得があるのだろうか。それを知っているのはつらい思いをした経験者だろう。誰もが周囲から後ろ指さされないようにしながら、びくびくしながら家族を耐え忍んできた。現行制度が父母の権利が損なってきたと、自らの経験を踏まえて訴えることで、その無意味は浮き彫りになる。
そんな窮屈な世界に止まる必要は何もない。共同親権訴訟と大鹿民法草案は、そのための手段にほかならない。子育ては自由だ。誰もがそれに気づいたときに、法も社会も変わるだろう。

2023年2月5日 宗像 充